2016年8月29日月曜日

秋桜と古本


 

 関東につぎつぎ台風が飛来するなかでも、ぼくは日々、遅々として机上にある。あゝ泰平哉。
    ブログも、これといって、書くことがないのです。

 ここ数日は、現代詩を専門とするロンドンの老舗出版社、Arc社から注文を受けている新作詩を書き下ろしていた。

 打ち合わせ以外の外出といえば、もっぱら、家の周囲にひろがる田園の散策。

 その散歩も、台風でなかなかゆけなかったけれど。

 きょうは夕陽を浴びて、秋桜、コスモスが咲こうとしていた。

 「桜回廊」のアスファルトには、またすこうし秋に近づいた桜の葉が、吹き寄せられていて。自然の描く草文絵図を眺めていたら、なんとなく、古伊万里が恋しくなった。

 もうすこし涼しくなったら、夏の酒器を仕舞って、秋の酒器を見繕いたい。とはいえ、この夏も骨董屋を廻る時間がなくて、近年、これといった秋の酒器がだせないのだけれど。

 よって、以前、藤沢の古書店で買った料治熊太の骨董随筆『見直し文庫   日本の雑器五十章』を手繰りつつ、まさに無聊を慰めている。
   昭和五一年、一九七六年刊行の初版。たぶん、当時は革新的ですらあった、ボール紙箱装。

    庶民のイメージがつよい古伊万里だけれど、誤解で、「身辺雑器」とよぶには気がひける。でも、料治氏いわく、古伊万里が「土の中から生まれ、土の中で育った」、かつての日本人の自然観にとても近かったことは、氏の文章と収集品から共感できた。

    西脇順三郎の詩と古伊万里の魅力が、どこかでつながっているように感じるのは、ぼくだけだろうか。

    また、上写真にもどるけれど、この秋桜。ぼくにとって、白蓮汚泥に染ぜらるが如し、なのです。

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