2014年12月17日水曜日

木村友祐さんの『聖地Cs』


 年が明けるまえに、ぜひこの本については書いておきたいと思っていた。今年の秋のはじめに刊行された木村友祐さんの小説集『聖地Cs』(新潮社)は、すでに各方面で話題になった本。ぼくも『現代詩手帖』12月号アンケートなどでおすすめしていた。
 本の帯に「震災後文学で最高の一冊」と星野智幸氏がコピーを書いているのだが、異論はない。ぼくはふだん国内外のミステリ以外はあまり小説を読まないのだけれど、この本には衝き動かされ、いまも伴走してもらっている。
 東北を考えるとき、想うとき、詩に書くとき、詩と小説というジャンルのちがいはあっても、ぼくにとって『聖地Cs』は大切な本だ。技法やモティーフを学んでいるのではない。表題作の「聖地Cs」は原発事故後に遺棄された牛たちと人間、東北の内外の存在が入れ子構造のように出会いながら、より外部に広がる社会と世界の不可視のデザイン(構造)に立ち向かう。その大きな構築力は、やわらかな語り口ながら強靭に練り上げられた文体によって支えられている。しかし、この本は魅力はそういった「小説的」な問題や美には、おさまりきらないと思う。
 ぼくにとっては情動の問題なのだ。詩でいえば、抒情の力、というべきか。
 世界のちいさな/大きな残酷さや理不尽さ、暴力とふれあわざるを得ないとき、この言葉があれば、もうすこしがんばれる。それが本来の、本の力ではないだろうか。だから人にとって、本は内密で大切な世界だ。エンタメや文学に閉じきらない、『聖地Cs』にはまだそんな遠い場所が存続している。派遣社員、格差社会をとりあげた「猫の香箱を死守する党」にもある。ぼくらは「いま=ここ」の生を書きとるために、日々、詩や小説を研究している。でもそれがほんとうに実現しそうになるのは、いつも詩や小説を越えて架かる紙のブリッジが生まれたときだ。情動について書こうとすると、ぼくはいつもうまく書けない。それは世界が在ることについての、信仰を語ることにも似ている。
 青森県八戸市生まれの小説家、木村友祐さん。ご本人には、何度かお会いしたことがある。控えめで、言葉数がすくない木村さんが、そのやさしげなマスクのしたで、じつは骨太な「王道の小説家」であったことが、むやみにうれしい。

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